アンフーン・グエン氏インタビュー
マインドフルネス・ベル:先ほどお聞きしたことの続きですが、あなたは今もベトナムに小包を送っていられますか。
今もベトナムの人たちの援助に関わっていられますか。
アンフーン:ベトナム政府が旅行制限を緩和し、訪問できるようになってからは、ベトナムに小包を送るのを止めました。
孤児院や貧しい家族を訪れました。今は小包を送る代わりに、お金を送っています。
何人かの友人の援助を得て、非営利団体である
「ベトナムの貧しい子供たち救済委員会(Committee for the Relief of Poor Children in Vietnam)を立ち上げました。
そこに人々から送って頂いたお金は、幾つかのプロジェクトを援助するため、年2回ベトナムに送金しています。
私たちがこの委員会でどういう仕事を行っているかについては、www.crpcv.orgを検索すれば分かります。
ここでの仕事が私の支えとなっており、私たちのサンガの支えとなっているのです。
私たちのサンガの一人はよく自分の畑で採れた野菜をもってきます。
それで得た布施はベトナムの貧しい子供たちの救済に当てられるのです。
マインドフルネス・ベル:タイ、シスター・チャンコン、そして教えと繋がりを保って行く上で何が役立っていますか。
アンフーン:タイとシスター・チャンコン、さらには仏陀と法との私の繋がりを支えているのはサンガ作りです。
私たちはサンガという土壌に育つ木々のようなものです。
サンガなくして、私たちは美しく、かつ力強く育つことはできません。
私にとっては、サンガがすべてなのです。
私がともに実践する兄弟、姉妹と座禅をし、話を分かち合う時、私たちの精神上の、
また血のつながりのある祖先のすべての人が私たちと一緒に坐っているように私は思います。
散歩をしていても、法話をしていても、タイ、私のサンガ、そして私の先達であるすべての師がいつも私と共にいるのです。
マインドフルネス・ベル:ということは、一人きりだと思う理由は何もないということですね。
アンフーン:私は一人きりだと思ったことは一度もありません。
家族の中で、またサンガの中での最も厳しい試練の時においても、すべてうまく行くのだ、と私は深く信じています。
私たちがしなければならないことは、私たちの先師たちの流れに身を任せることなのです。
私としては、どのような決断も自分だけで下す必要はなく、どのような問題も自分だけで解決する必要はないのです。
タイ、シスター・チャンコン、そして私たちの祖先のすべての人がすべての事を私たちと一緒にやってくれるのです。
サンガは浮きのようなものです。
私たちがベトナムを離れた時、私の父は私たちが乗った小舟にタイヤをぶら下げました。
もし父がそうしていなかったら、私たちが乗った小舟は高波に出会った途端にすぐさま沈んでいたことでしょう。
私にとってサンガとは、父が浮きに使ったタイヤのようなものです。
それが私たちを沈ませずに浮かしていてくれるのです。
サンガは身体です。
たまたま誰かが頭であり、誰かが胴体であり、誰かが足なのです。
私たち一人一人がサンガという身体の異なった部分なのです。
しばしば、法話をする師はサンガの指導者だと見られますが、それは誤った見方と言えます。
師はサンガの頭の部分に属するかも知れませんが、指導者である必要はないのです。
私、いや私たちがサンガの世話をするのです。
ただし、サンガの世話をする『私』や『私たち』が実在するのだという考えを信じることは、
サンガ作りの喜び、自由、幸せを取り去ることになるかも知れません。
サンガの世話をするという行為はあっても、サンガの世話をする人間は誰もいないのです。
マインドフルネス・ベル:仮に誰かが『私が世話をしているのだ』、あるいは『私たちが世話をしているのだ』という
思いをもっているとすれば、そのような思いで働いている人たちが心を開くよう、あなたならどうすることを勧めますか。
アンフーン:サンガの中で働くということが、心を開くように生き、実践し、助け合うことになるのです。
霧の中で歩けば、私たちのシャツは次第に濡れて来ます。
サンガの中に一人でも『自分がサンガの世話をしているのだ』という思いをもたずにサンガのために働く人がいれば、その気持ちがサンガ全体に沁み込んでいくのです。
インタービーイングという見地からサンガ作りをすることで、私たちは絶えることのない喜びと自由が得られるのです。
『ああ、あなたは OI(Order of Interbeing)なのですね。あなたには責任がありますね。
サンガを作らなければならないのですね。これもあれもやらないといけないのですね。』といったことを言う人がいます。
『法話をする師として、随分責任がありますね。』といったことも言う人もいます。
でも私はそうは思いません。
というのは、私自身、自分が法話をする師だと思ったことがないからです。
タイから得度を受けること、OIというコア・コミュニティーに入ることは、これまで以上に自分たちが自由で幸せになったのだと感じるのを助けるだけです。
というのは、そうすることで私たちは先師たちの流れに入るからです。
『茶色の上着』とか『法話師』といったタイトルに惑わされてはいけません。
自分は幸せだと思っているなら、あなたはすでに真のサンガ作りを行っているのです。
責任感は健全な資質ですが、『私が責任をもって運ばなければ』という考えが混じる時には、
その責任感が重荷となり、不幸せのもとになるのです。私たちは何も運ぶ必要はないのです。
サンガがすべてを運んでくれるのです。
苦しみを受け容れること 私が繰り返し伝えたいメッセージは、
自分の中にある苦しみ、悲しみ、沈んだ心から逃げ出すな、ということです。
内なる声が、苦しみのもとに帰っていけばあなたは死んでしまうよ、と語りかける時があります。
この声は、サンガを信用してはいけない、サンガでの実践で解決できることには限度があると語りかけるかも知れません。
この種の破壊的なエネルギーのことを私は『病意』と呼んでいますが、これは誰もが持っているものです。
これを持っていると、私たちはサンガという土壌に深く根をはることができません。
この『病意』に脅かされると、私たちはサンガに心を開くことができなくなります。
私たちの心を恐怖や猜疑で一杯にしてしまいます。この声と議論し、耳を傾ける必要はないのです。
私がサンガの友人たちと分かち合ってきた呪文を知っていますか?
この声を聞いた時には、2、3回深く呼吸をし、この呪文を唱えればいいのです。
その呪文とは、
『そう、私は死ぬのです。私は死を受け入れます。
サンガの腕の中で私が死ねば、そんな良い死に場はない。
仏陀の腕の中で私が死ねば、これ以上に良い死に場があろうか?』というものです。
何が起ころうとも、私たちはサンガの集まりに出て来る決意をしています。
私の法弟の一人ですが、深い苦悩と古いトラウマを抱えている人がいます。
以前には、感情が高ぶった時には、彼はサンガに来ませんでした。
というのは、そうした時には彼は運転ができなかったからです。
しかし今は、そうした時には、タクシーでサンガに来ます。
実際、サンガに出て来るのです。
私たちも、古いトラウマが再出する時には、サンガに来るのが安全だと思えなくなることがあります。
私が彼に勧めたことは、サンガに来て、横になる時に、『親愛なるサンガの皆さま、今日私がサンガで休息できるよう、皆さんのご助力をお願いします。』と書いたノートをシャツにピンで留めておくことです。
1日の終わり、疲れた時、私たちは家に帰り、休みます。
ベッドに横たわり、リラックスし、すべての自己イメージを取り去ることができます。
私が望むことは、私の兄弟、姉妹がそれぞれのサンガで、これと同じような休息がとれ、これと同じような慰めが見つけられることです。
人々が眼を閉じ、リラックスし、呼吸を楽しむためには、サンガは人々が安全と思える場でなくてはなりません。
サンガが安全と思える場となれば、私たちはサンガという身体の細胞なのだと単に口で語るだけでなく、細胞として生きているのです。
兄弟、姉妹としての仲間は、困難な時も幸せな時も、共に経験することで生き生きとした集まりになるのです。
サンガでの実践は個々の実践者を糸としてサンガという毛布を編み、誰をも暖かく、気持ちよく保ってくれるのです。
これが、私の夫トウがソフトウェア・デベロパーとしての職を辞し、私が生物化学リサーチャーとしての職を辞した理由なのです。
そうすることで、私たちはサンガ作りに専念できると思ったからです。
フェアファックスでのマインドフルネス・プラクティス・センターの初年度には、布施の籠が空っぽの日が多くありました。
私たちは貯金に頼って生活をしていたのです。
今は20歳になった私たちの息子バオティックは、その時はまだ幼稚園児でした。
MPCFの将来がどうなるのか、心配でした。
よく私たちはお互いを見つめ合って笑いました。
そして私たちの祭壇に飾ってあるタイが書いてくれた『今を幸せに生きる』という意味のAn Tru Trong Hien Taiという額を見上げたものです。
私たちはすべてを祖先の人たちとサンガに託したのです。
私たちは私たちの人生と実践を、遠近を問わず私たちの友人たちと分かち合ってきました。今は、私たちは幸せです。
Engaged Buddhismについて
マインドフルネス・ベル:あなたはEngaged Buddhism(日本語では、「社会参画仏教」、
「行動する仏教」などと訳されている)をどう定義しますか。どのようにそれを実践されていますか。
アンフーン:Engaged Buddhism は、苦しみのあるところにはそこに出向いていくのだ、という決意から始まります。
その苦しみとは私たち個人の苦しみだけでなく、全体としての私たちの苦しみでもあるのです。
その苦しみという赤子を安全に優しく持ち上げ、マインドフルネスでもって抱き、あやすことを学ぶのです。
私たちの息子が生まれた時のことですが、私は母から赤子の抱き方を教わっており、他の母親が赤子を抱くのを見ていたにもかかわらず、どうすればよいのか、手探りの状態でした。
自分の手で赤子を抱かなければ、この経験を自ら生き生きと経験することはできません。
ただ、理屈でこう抱くのだと分かっていても役に立ちません。
マインドフルネスとコンセントレーションでもってすれば、母子とも安全で、気持ちよく、幸せになるのです。
私にとって、engaged Buddhismとは水のようなものです。
水には形がありません。四角い容器に容れれば四角い形となり、円形の容器に容れれば円形となります。
マインドフルネス・プラクティス・センターは、マインドフルネスの実践を宗派にとらわれないやり方で行うというタイの素晴らしい考えから生まれたものです。
法には形はなく、特定の形のものではありません。
私たちがやろうとしているのは、Buddhism の大文字の“B”を小文字の“b”にすることです。
私たちには、仏像も要らないし、線香を炊く必要もないのです。
私たちにはお互いに頭を下げる必要もないし、仏教用語を使用する必要もないのです。
今ある状況に身をおくことを学び、人々が安全だと感じることができるよう法を分かち合うのです。
そうすることで、人々は心身の緊張から解放されるのです。
これが、MPCFではマインドフルネスの日に全身リラクセーションから始める理由です。
人々はストレスを背負っています。
横たわった姿勢で提供されるガイド付きの瞑想は、人々、特にマインドフルネスの実践に初めての方たちに、しばし立ち止まり、自分たちの体と容易に繋がりをもつのを助けるのです。
そうすることで、気分が鎮まり、心が開かれるのです。
私たちが本当にそこに身をおけば、その状況にあった新しい法の戸が開かれるのです。
ですから、MPCFでのやり方は参加する人たちの必要から生み出されたものであり、私たち指導するものが作ったものではないのです。
タイが夢見ていることは、どの町にも、どの市にも、マインドフルネス・プラクティス・センターができることです。
私はこのことを、あらゆる所に生え出してくる椎茸のイメージに譬えています。
多くのサンガ兄弟、姉妹がマインドフルネスを学校、刑務所、その他の場所に、
仏教という形をとることなく、すでに持ち込んでいます。
自分たちの心の中にある苦しみを抱きとめることができれば、
あとは理解と同情が一歩一歩私たちの進む道を導いてくれるのです。
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